「ロス・タイム・ライフ」の審判であれ
救急、急性期医療、手術。ここでは技術が最優先される。「誠意ある手術の下手な医者」など何の意味もない。まずは医者は若いころは技術を磨く。だが、いずれは技術も体力も衰えてゆく。医者人生の精神的、肉体的ピークの時期は長くない(わたしなどもうボロボロだが、「あんたにピークのときなんてあったの?」などと妻に聞かれるぐらいだ)。そして次のステージに気がつく。人間の死亡率は一〇〇%だ。いわば「人生とは長い長いロス・タイム・ライフ」。技術は大事だが、患者さんの最期には、医者は技術者ではなく「ロス・タイム・ライフの審判」であればいいのではないか。そしてサッカーのロスタイムの審判には、十分な知識とある程度の実践力が必要であるのと同じように、医者の場合もしかり。J大の有名な死生学の教授は「すべての人は必ず死ぬから、すべての医療は失敗といえる」などと書かれているが、それは断じて違う。こういうえらい方々は現場にいないから「失敗」などという言葉を使うのだろう。「失敗」ではなく、医療の最後は「試合終了のホイッスル」なのだ。「ああ、最後にいい審判にめぐりあえた」と思ってもらい、われわれ審判は、(人生)終了のホイッスルを吹く。『最上の命医』では、小児の命を救えば、その先にある無限の未来の仲間や子孫たちを救い、無限の樹形図ができあがっていく、と言う。ならば、われわれ内科医は、患者さんの人生の幕引きをその子供たちに見せて、残りの人生を有意義にしよう、という気を起こさせる「逆樹形図作り」だ(たそがれ中年医者のせいいっぱいの反撃)。そう考えれば、末期に痛みをとってあげたり、眠らせたり、臨終の場で家族に、「本人は全然苦しくなかったと思いますよ」と(たとえそうでなくても)言ったりする演出も、ある程度許されるのではないかと思うのである(今の医療不信の日本ではむつかしいが)。